私は戦争を語る資格がありません。
なぜなら私は戦争を反省していない民族に属しているからです。
故に戦争は語りませんが、その戦争がなぜ起こっているか?の原因は書けます。
なぜなら私は宗教者であり求道者なのだから。
前にも書いたかもしれませんが、信仰や崇拝、洗脳は私的なモノでなくてはいけません。
なぜなら、信仰や崇拝、洗脳、そして宗教が徒党を組んだ時、それは宗教ではなく、大変恐ろしい愚衆に成り下がるからです。
ちょっと考えてみてください。
あなたの悩みを解決するためにお寺にお参りに行く時、何百人と引き連れてお参りに行きますか?
あなたの悩みを解決するために教会で懺悔する時、何百人の人と一緒に懺悔しますか?
普通、何か悩みがあった時、打ち明けたとしても1人か2人でしょう?
故に信仰や崇拝、洗脳、そして宗教に懇願するときに徒党を組む必要がないのです。
ただ、為政者や独裁者はその洗脳や信仰、そして宗教を利用して人間同士に憎しみを煽り、争わせるように仕向けるのです。
そして、その争いは物欲や名誉欲、あらゆる人間の欲望での争いと違って、止むことがないのです。
なぜなら洗脳や崇拝、信仰、そして宗教は欲望ではなく、決して曲げることのできない信念によって争っているのですから。
そしてその決して曲げることのできない信念の集合体が戦争に発展するのです。
私は断言します。
宗教は大変恐ろしい概念であると、そしてその概念が正しいか?間違っているか?に関わらず決して徒党を組んではいけないと。
あなたの信仰や崇拝はあなた自身が信じることによってあなた自身しか救いません。
なぜなら、他の人は他の信仰や崇拝があるのですから。
私は聖書の言葉を発信します。その言葉は正しいという私の信仰と信念です。
然し、私は絶対に強制はしません。なぜならそれは私の信仰や信念に反するからです。
これが宗教が私的なものである確証です。
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